お仏壇にはヒマラヤ山があるのです。

お仏壇で、あまり知られていないのですが、
お仏壇にはヒマラヤ山があるのです。

須弥壇(しゅみだん)という壇があります。須弥というのはインドの言葉でヒマラヤのこと。地球上で一番高い山。この中で登られた方はいらっしゃいますか。いらっしゃらないですか。一度登ってみるといいですね。きっとそこは私の想像をはるかに超えた世界でしょう。仏さまが私を救わずにはおれないというお心は、私の想像をはるかに超えたお心。それを表すために須弥壇の上にお立ちです。私がどれだけ背いても、わが子を思う母のように、決して見捨てず、いつもなんまんだぶと、はたらいてくださる仏さまです。

お仏壇の真ん中にあるピラミッドみたいな場所が須弥壇です。

「日本一短い家族への手紙」(角川文庫)

家庭というものは、敬いと愛の場所であって、子供たちを育てる道場です。どうしてこれを乱すことができようかと、その大切さが示されております。
 私たちの文化は、子供を育て、人間としての形成をはかる場として、「家庭」を最良の場として歴史をつくってきました。
 「日本一短い家族への手紙」(角川文庫)という本に次のような一文がありました。

 ありがとう。ごめんなさい。
 大好き。大嫌い。
 愛していたり憎んでいたり、
 一緒に住んでいても、
 離れて住んでいても、
 もう二度とあえなくても、
 それでもどこかでちゃんとつながっている。
 ふだんは空気のようだけど、
 いつもは不満だらけだけれど、
 帰って来るのはここしかないね。

 みんな一つ屋根の下で生活を共にし、朝起きて顔を洗い挨拶を交わし、食事し、働きに出掛け、夕方になればここに帰り眠ることを毎日繰り返しているのが「家庭」であります。
 これは釈尊の時代から今日まで何千年来、いかに世の中が進み、便利になってもその役割は何ら変わってはいないのです。
 日本の家庭では、みんなの暮らすお家の中心にお仏壇を置き、お仏壇の無いところでも床の間を造り、心落ち着ける空間をしつらえて、朝な夕なに手をあわせ、喜びにつけ悲しみにつけ、祈る場がありました。
 そこは「仏と、その教えと、その仲間」を宝とし、敬いと感謝を行ずる所でありました。父母、祖父母のそうした姿はみ教えとなって、子や孫の宗教的素養を育んできたのです。
 何年か前になりますが、東仙台の善應寺で早坂さんというお宅のおじいさんの葬儀の時でしたが、孫の敬ちゃんが述べた「お別れの言葉」に参列者みんなが涙しました。亡くなったお祖父ちゃんはもちろんのこと、早坂家は代々信心の篤いお宅です。
 その人の立ち居振る舞い、日々の暮らしに見る人間性は、その人が亡き人となった時、生きていた時以上に浮かび上がってくるものです。
 
花園の敬ちゃんの「お別れの言葉」を紹介しましょう。
 「じいちゃん、覚悟は決めていたつもりだけど、その時がこんなに早くやってくるとは思ってもいませんでした。早板家はずっと六人家族なのだと思っていました。大きくなってからの私は、じいちゃんに口答えばかりする孫だったかもしれません。今はじいちゃんにもっとやってあげられることがあったのではないかと、自分を責めたい気持ちでいっぱいです。-略-
 『垂れ下る稲穂に祖父の頬ゆるむ』自分の作ったお米に誇りをもっていたじいちゃんを書いたんだよ。胃の手術を受けてから入退院の繰り返し、その度にじいちゃんの好きなものが一つずつ奪われて行ったよね、バイク、タバコ、庭の手入れ、そして生きがいであった田圃の作業までも……。-略-
 じいちゃんは頑固で口も悪かったけれど、とても人思いでやさしい人でしたね。じいちゃんは病気になって辛かっただろうけど、じいちゃんが病気になってから家族の絆が強まった気がします。協力することの大切さを知りました。-略-
 じいちゃん、十六年間本当にお世話になりました。じいちゃんとの思い出を胸に刻み、家族五人、力を合わせて頑張っていきます。ばあちゃんもじいちゃんの分まで大切にします。だからずっとずっと私たちを見守っていて下さいね」
 家の歴史であり、家族の柱であった祖父との別れの悲しみの中で、敬ちゃんは大切な教えを祖父からの贈り物としてしっかり受け止めているのです。
 参列者を感動させた孫のお別れの言葉は、このお家代々の当主が「子女養育の道場」としての家庭を育んできたからであります。
山田無文老師の短文「水の如くに」の中に

「流れる水は凍らぬとか、流れる水は腐らぬとか。それが生きておるということであろう。田畑をうるおし、草木を養い、魚を育てながら、決して高きを望まず、砥いほうへ低いほうへ水の流れる如く、わたしも流れたい」

とありますが、先祖というはるかな流れの中に今ある「いのち」は、「仏と、その教えと、その仲間」を宝として「水流れる如くに」暮らしの中に行じていくことによって、「信じあい、支えあい、拝みあう」敬愛の場としての家庭をうるおし、養い、育てていくのです。

一粒万倍とよくいいますが 

私たち人間は、食事を摂らなければ生きていけません。最も基本的な生活の一部であり重要な営みです。それはどんな生き物でも何ら変わりはありません。しかし私たちはその生き物の命をいただいて生きているのです。私たちは直接生き物の命を奪っていることを意識せずに食事をしていますが、野菜でも、肉でも、生き物の命を食べているということに変わりはないのです。
 お米も、本当は子孫を作る可能性を秘めたまま食されます。一粒万倍とよくいいますが、成長すれば稲穂を付け、たくさんのお米が実るはずの一粒です。その命を奪わなくては、私たちは生きてはいけないのです。私たちは多くの命に支えられて生きているのですから、たくさんの可能性を秘めて一生懸命生きていた食べ物に、せめて感謝の心を忘れず、支えていただいた命を無駄にしないためにも私たち自身も活かし、全ての命のために努力をしなくてはならないのです。そのおかげで今、私たちは生きることができるのですから。
 特に天台宗では、一般の人でも食前・食後にお唱えする斎食儀(さいじきぎ)という食事作法(じきじさほう)があります。これは、下に示す文をお唱えして新たな心で食事をいただくのですが、この文は、天台大師の説かれた『観心食法(かんじんじきほう)』をわかりやすくしたものです。これをお唱えすることによって、感謝の気持ちを持ち、心豊かな日々の生活を送っていただきたいと思います。

  「食前の言葉」
われ今(いま)幸(さいわい)に、仏祖(ぶっそ)の加護(かご)と衆生(しゅじょう)の恩恵によって、この清き食(じき)を受(う)く。つつしんで食(じき)の来由(らいゆ)をたずねて、味の濃淡(のうたん)を問わず。その功徳を念じて品(しな)の多少をえらばじ。いただきます。

  「食後の言葉」
われ今、この清き食(じき)を終わりて、心ゆたかに力(ちから)身(み)に充(み)つ。願(ねが)わくは、この心身(しんじん)を捧(ささ)げて己(おの)が業(わざ)にいそしみ誓って四恩(しおん)に報(むく)い奉(たてまつ)らん。ごちそうさまでした。 

幸せと感謝の関係

幸せとは健康であって、日々の暮らしに困らないとか、
充分なお金があって、いつもほしいものが得られるなどさまざまでしょう。
私の幸せは、
「どんなときでも、お釈迦さまの教えにそって生きられること」ですが、
なかなかすべてがうまくいくとは限りません。
幸せと感謝の関係ですが、
とても幸せな人が、みんな必ず感謝ができているとは限りません。
また、感謝の思いを常に持っている人は、
たとえたくさんのお金がなくても幸せに暮らしている人も多いと思います。
また、健康であっても不幸な人はいますし、
お金があっても幸せでない人もいます。
健康であっても、家族が不和であったり、
お金があっても、子どもがぐれてしまったりして
「なぜ、こんなことが私ばかりに起こってしまうのか」
と悩んでいる人もいることでしょう。
幸せで何の悩みもないという人であっても、
見えない神仏に感謝をささげて生きているでしょうか。
空気の存在を常に感じて、
「空気様のおかげ、ありがとう」と感謝しなくても、
幸せに暮らしている人は多いのではないでしょうか。
言えることは「幸せな人は、必ず感謝できているとは限りませんが、
感謝できる人は、幸せである人が多い」ということです。
感謝というのは「ありがとう」の言葉で代表されるように、
「有ることが難しいけれども、それが有るようになった、得られて幸せになった」
というふうにとらえることができます。

「生きものを殺さない」ということは、「生命を与えているに同じ」

仏教では、「生きものを殺さない」ということは、「生命を与えているに同じ」とします。ものを「盗まない」ということは「ものを与えるに同じ」です。
 積極的に「与えている」のではありませんが、奪っていない、妨害していないということは消極的であれ「与えている」ことになるのです。
 これは戒律を背面から考えているものです。
 新型コロナイウルスを直接消滅させる薬や罹患を防ぐワクチンは現段階では未だ開発に至っていないようですが、新型コロナウイルスを消滅させる薬やワクチンに代えて、対抗策としたのは「密室」「密閉」「密接」を避け「手洗い、うがい、出歩かない」等ということであったのであり、それが結果的には効力を発揮したことがわかります。
 私たちは「密室」「密閉」「密接」を避けたり「手洗い、うがい」は自分を守ることであっても積極的に新型コロナウイルス消滅に対応しているわけではないと考えます。
 ましてや「出歩かない」等ということは「何もしていない」ことであり、「行動していないこと」に他なりませんから、新型コロナウイルス蔓延抑止や伏滅には何もしていなかったように思いがちです。
 しかしそうではありません。
 「密室」「密閉」「密接」を避けたり、「手洗い、うがい」をすることは自分が罹患することを防ぐばかりではなく、自分が罹患して他者にうつすということを防ぎ、さらには自分が罹患し病院関係者などの力を割くことを防ぎ、その結果、新型コロナイウルスにすでに罹患した他の患者さんや他の病で苦しんでいる人のために、その分の治療や対応時間、さらに薬類や医療機器などを振り向けることにもつながり、対応や治療を促進することにもなります。
 「出歩かなかった」等のことも同じです。「出歩かなかった」等は、以上に加え、より直接的に蔓延の連鎖を断つ非常な貢献であり、自利と利他を満たす行為に他ならないのです。
 これらはいずれも自分の罹患を防ぎ、他者の罹患を防ぎ、罹患の鎖を断ち切り、新型コロナイウルスの蔓延を抑止し、医療崩壊や医療に携わる人の負担を軽減し、それをもって新型コロナウイルスに罹患した人や、その他の病気の人の治療に益々力を注げる環境を作り出し、新型コロナウイルス対応を始め多くの病気で苦しむ人を治癒しやすくして行くことを助けることになるという、まさしく布施行、菩薩行といってよいものです。
 新型コロナウイルス蔓延に対する日本の対応を見ますと、「密室」「密閉」「密接」を避けたり「手洗い、うがい、出歩かない」等という一見「小さな行動」や、時によれば「行動をしない」ことこそがが、新型コロナウイルスの蔓延を抑止し、医療崩壊等をも防ぐ布施行、救済活動の一翼にもなるという、仏教のものの見方と実践の考えが理解できる問題であるように思います。

他者に尽くすことを仏教では利他といいます

仏教は自分と他者の幸福のため(自利と利他。悟りがその最高)、また現在だけではなく、未来の幸福をめざしています。 そのために、自分のみならず、他者に尽くすことは尊いこととしています。 この他者に尽くすことを仏教では利他といい、布施に含まれます。 布施の範囲は広く、いわゆる財物を与えることもあれば、危難を救うこと、安心を与えることも入りますし、礼儀正しさや看病まで入ります。 また、行動のみならず、言葉による布施(柔和な言葉を語る。励ましなど)もあり、よい心を持つことも布施になります。 ありとあらゆる他者のためになるものは、すべて布施であり、利他といえます。 では、今回のような新型コロナウイルス蔓延下での「他者のために尽くす(利他)」とは、直接の対応をされている医師や看護師など医療関係者の他の、一般人である私たちは、どう考えるのでしょうか。
《新型コロナイウルス蔓延下で「密室・密閉・密接を避けることや手洗い、うがいを励行したり、出歩かないこと」等自体が自利利他になり、他者に尽くすことになります》
 新型コロナウイルスについて、「密室」や「密閉」「密接」を避け「手洗いやうがいを励行し、出歩かないように」等という要請を受けて、法的な規制もないまま多くの人が自発的にこれらに従いました。 その結果、日によって増減はあり完全とはいえないまでも、新型コロナウイルスの蔓延は一時の勢いを失ったようです。 つまり、一人一人がとった「密室」「密閉」「密接」を避け「手洗い、うがい、出歩かない」等の行動が、新型コロナウイルスの蔓延の勢いを弱める大きな一歩になったことは疑う余地はありません。 これらの日本人の行動は仏教的にも正しいことで、一人一人が利他、つまり他者に尽くし、社会に尽くしたことに他なりません。
日本人の行動は、自信をもって良いと思います。

あなたにとって、観音様は、どなたでしょうか。

以前、近くのお寺の団体参拝に同行することがありました。というのもこのお寺から如意輪観音と伝わる仏像が京都国立博物館に出展されるとのことで、比叡山への参拝もかねて見学に行かせていただいたのです。

 一日にたくさんの仏様を見て、そういえば観音様にはほかの仏様とくらべて色々な姿があるなあと思い法華経の観世音菩薩普門品を思い出しました。この普門品というのは、観音様は世の中の声を聴く仏様で、故に観世音と言われ、苦しい時に観世音菩薩の名を一心に唱えればその声を聴いた観音様に救ってもらえると説かれたお経です。その中の一説に、

応以仏身。得度者。観世音菩薩。
即現仏身。而為説法。
応以辟支仏身。得度者。観世音菩薩。
即現辟支仏身。而為説法。

と続く場面があります。ここを簡単に言うと、観音様はそれぞれ助けを求める衆生に合わせた姿で現れてその者に合わせた説法をすると書かれています。この普門品に書かれている一説を思い出した時に、それぞれの助けを求める者の声を聴き、姿かたちを変化させ衆生を救うという仏様が観音様で、聖観音、十一面観音、千手観音、如意輪観音、馬頭観音などそれぞれの願いや信仰に合った観音様がお祀りされ拝まれているということがわかりました。

 このことを書いて、私はふと思ったことがあります。それは何気ない日々の中で誰かに助けられるといった事についてです。こういった誰かに助けられるという事に対して、もしかするとそのとき助けてくれるのは、その人に姿をかえた観音様ではないかと言うこともできるのではないかと思ったのです。このように考えると、日常の中にもそのどこかに仏様というのは居り、私たちが健やかに過ごせるようにいつも見守っていただいていると思えるようになり、日々を豊かに暮らせるのではないでしょうか。
あなたにとって、観音様は、どなたでしょうか。

なぜ入魂ではなく入仏なのか 

「お仏壇は亡くなった人をお祀りするところ」と、こう思っておられる方は非常に多いことでしょう。しかしお仏壇というものは文字通り仏様をご安置するところです。浄土真宗のお仏壇なら正面の一番奥に「阿弥陀如来」がいらっしゃいますが、ご本尊であるその阿弥陀如来こそお仏壇の中心です。

 「壇」とは他より一段高い台のことですが、仏様の為にしつらえた一段高い台を仏壇と言います。お寺の本堂の中心には仏様がいらっしゃる「須弥壇」という台がありますが、これも広い意味ではお仏壇なのです。

 ちなみにご家庭のお仏壇もお寺の本堂も極楽浄土を模した造りになっています。浄土真宗のお仏壇が金仏壇である理由もそこにあります。あのきらびやかな金仏壇は実は光り輝く極楽世界の表現だったという訳です。

 よく「お仏壇を買ったのでお魂入れをお願いします」とか「引っ越すので仏壇から魂を抜いてほしい」といわれますが、上記のことをご理解頂ければ、なぜ入魂ではなく入仏なのか、なぜ抜根ではなく遷座なのかについてご納得頂けるのではないでしょうか。あくまでも阿弥陀如来をお迎えする入仏法要、また阿弥陀如来に座を移って頂く遷座法要であって、亡くなった方の魂が出たり入ったりしている訳ではありません。

40度の急斜面で老夫婦が畑をしています 

40度の急斜面で老夫婦が畑をしています。
朝、斜面に来たら作物に話かけるそうです。
「今日もよろしくお願いします。挨拶をすると、作物も一生懸命、作ってくれるんや」
素晴らしい話を伺いました。

感謝と愛は、自分自身をも幸せにしてくれるのですね。

支えあって生きていきましょう

怒らないことによって怒り打ち勝て

「怒らないことによって怒り打ち勝て、善の行いによって悪に打ち勝て、分かち合うことによって物惜しみに打ち勝て、真実によって虚言の人に打ち勝て。」(ダンマパダ223)

 怒らないことで、怒る人に勝とう。嘘をつかないことで、噓をつく人に勝とう。すぐに怒る人、いつも怒ってばかりいる人は、「優しい心」が無くなっています。怒っている人はそれに気づいていません。誰が怒っても、自分は優しい心をなくさずにいて下さい。お釈迦様は「怒る人に、怒らない心で勝とう」と言っています。そして、「悪いことには、善い行いで勝とう」「嘘を言う人には、嘘を言わずに勝とう」と教えています。怒りには怒りで対応し、嘘には嘘で返すような浅薄な人になるな、怒りも虚言も悪行も遠ざける信念をもって生きよと教えて下さっています。価値観の揺らぐ現代こそ、怒らない人の強さ、善い行いをする人の素晴らしさ、分かち合う人の頼もしさ、真実を語る人のすがすがしさを大切に実践していきましょう。