平成2年8月3日   霊松寺にて

怒りっぱなしの人生はいやだなあと、思わない人はいないでしょう。明るく楽しく、みんなと仲良く生きることができればなんて幸せなのでしょう。それはすべての人間の希望です。怒らずに明るく生きるということは個々人の心次第ですので、努力さえすればどんな人にでもできないことはありません。理屈はそうかもしれませんが、怒ることなく完全に明るく生きていられる人は、世の中にほとんどいないのではないでしょうか。
「怒りっぱなしの人生」をもう少し詳しく理解してみましょう。これは、怒り、激怒、憤慨、逆鱗、敵意などのわかりやすい意味だけではありません。このような感情は、頻繁に人を悩ませるわけではありません。仏教の「怒り」という言葉は、いくつかの感情を集約してつけた分類名です。怒り、嫉妬、物惜しみ、後悔、憎しみ、悩み、陰気、いらだち、いやな気持ち、落ち着かないこと、焦り、不適応、などの感情を含んだ分類名なのです。このような異なる感情を「怒り」とまとめるのはなぜでしょうか。ここにあげたような感情はどれをとっても、人がその対象を受け入れず、対象に対立している働きであるという点で、共通しているからです。これを「怒り」というのです。「怒りのない明るい人生」と仏教でいう場合は、以上述べたようなすべての、対象に対立する感情のない生き方を指しています。
みんながいい人であるならば、物事がうまくいくならば、自分の気持ちがちゃんと通じるなら、怒る必要はないのです。しょっちゅう怒る人が、よく口にする文句があります。相手が間違っている、いけないことをしている、こちらの気持ちを理解しない、言われたとおりにやらない、悪いことばかりしている、良い人間ではない、自分勝手だ、頑固だ、社会性がない……だから怒らずにいられない、というのです。
このような文句は、あまりにも、おかしいほど非論理的です。自分の気持ちに合わせて相手が接するならば、人は誰でも怒らないのは当たり前のことです。人間だけではなく動物でさえも、その動物の気持ちに合わせてやると怒らないでしょう。つまり、私が怒らないで明るく生きていられるためには、私に関係のあるすべての人々(生命)が完全でなくてはならないという解釈なのです。さらに強調して言うならば、こういうことになります。私は、すぐ怒ってしまう弱い性格ですが、怒りっぱなしの人生もまたいやなのです。ですから、私の幸福のために、すべての生命が完全に私の気持ちに合わせなさい。私は自分の性格はそのままにしておきたいのです。そんな意味になるのではないでしょうか。このように強調してみると、以上の文句がいかに非論理的かということが理解できるかと思います。
世界は自分中心に回ってくれないので、自分が世界を回すしか道はないと思います。しょっちゅう怒る自分の弱い心を強くすれば、この問題は解決します。怒らない精神を実践しようとするということは、良い人に対して怒らないのは当たり前のことなので、悪い人に対しても決して怒らないということを実践しなくてはならないということです。悪いといっても「相手が悪い」と自分勝手に思うだけで、完全に悪い人はいません。人の欠点だけを捜す生き方ではなくて、いつでも他人のいいところだけを見いだせるようにしましょう。自分も他人も完全ではないのですから、相手の心の悪いところが見えても、その部分は包容力を持って理解しましょう。あるいは自分にもそういういけないところが、捜せばいくらでもあるということを、その瞬間に思い出しましょう。
もし、相手が本当に悪くて、悪人としかいいようのない場合は、どうしましょう。理由もなく、自分に害を与える、非難する、侮辱する、攻撃する、自分に対して怒る。また、犯罪者、殺戮者、破壊者、のような人に対しては、どうしましょうか。仏教の答えは、その場合も怒るなかれ、敵意を抱くなかれというものです。相手は無知で、悪いことばかりをなしています。この世でも、何の幸せもなく、苦しんでいます。亡くなってからも、大変不幸になるでしょう。助けたくても助けられない状態です。かわいそうです…と、相手に対して慈しみの気持ちを持つべきです。完全な悪人に対してでも、怒ったり攻撃したりすると、自分も余計な罪を犯して不幸になる「愚か者」になります。悪をなすのは相手であって、自分ではありません。それに腹を立てて攻撃すると、自分も怒りに汚染されてしまいます。相手を攻撃しよう、非難しよう、裁こうと思うと、結局、自分が攻撃され、非難され、裁かれます。相手に自分の手で汚物を投げよう、あるいは炭火を投げようとすると、先に汚れるのは、あるいはやけどをするのは自分であって、相手ではありません。相手が身体をかわせば、汚物は当たらずに被害を受けない場合もありますが、汚物を投げようとした自分の手は必ず汚れます。ということは、我々は他人に対して攻撃したり怒ったりして相手を困らせようとしても、相手はそれによって困る場合も全く困らない場合もありますが、自分が怒りで汚染されて不幸になることだけは確実で確かなのです。そういうわけで、いかなる場合でも怒る人は愚か者であり、人生の敗者です。勝利を得たい人は悪人に対しても怒りません。
さらに、人のためにつくす人々、苦しんでいる人達を助けようとしている人々、また道徳を守る人々、誰にも何の害も与えない人々は、簡単に世の中から非難されます。いいことをする人に限って無抵抗なため、世の中の攻撃は大変激しいのです。しかしこれだけは、悪人に対して怒ることよりも、もっと大きな最悪の罪となります。自分と人類のすべての幸福を破壊する道なのです。良い人に怒ってしまうこと、これは究極的に危険な生き方だと覚えておきましょう。

その行いがお前さんの相を変えたんだ

こんな話を読みました。

さる山寺へ旅の老僧が訪れ、一夜の宿を乞いました。そして老僧は小僧さんの案内を受けて宿泊するのですが、翌朝又見送りに出た小僧さんの顔をシゲシゲと見て、
「いや驚いたねえ、昨晩のお前さんの顔には三日以内に死ぬという死相が出ていた。しかし今のお前さんは80才以上の長命の相に変わっている。きっと昨晩から今朝にかけ、何かすばらしくよいことをしたに違いない」というのです。
「いや別に」とけげんな顔の小僧さんに、
「そんなことはないはずだ」と老僧は又強くいいます。
「さあ、私のしたことといったら、便所があまりに汚れていたので、こっそりきれいに掃除したことくらいです」と小僧さんがいいますと、
「いや、それだよ、それに違いない。その行いがお前さんの相を変えたんだ」
と旅の老僧はわが意をえたりと叫んだといいます。
 このお話をつまらぬ昔ばなしとお笑いになりますか。
 これは人に知られぬように徳を積む、いわゆる陰徳(いんとく)というものの働きを説いたものですが、とかく人にアピールするための善行になりがちなこのごろ。ひとつあなたにお願いしますが、ぜひ今日からでもお便所の草履が乱れていたら、そっとそろえてみてください。次に使う方がすぐに履けるように、むこうむきに並べるのです。
 そうすることによって、あなたのご家庭のお便所の履物がいつもキチンとそろっているようになれば、昔ばなしの老僧がいうように、あなたの顔にはもちろんのこと、ご家庭に何らかの変化が、きっとあるはずです。
これを陰徳と言います。

子どもが生まれると同時に親になる 

ニュースでは、親が子を虐待した事件が相次いでます。悲しく辛く涙がでます。

 親が子を産むのではありません。子どもが生まれると同時に親になる(親の誕生)のです。
ですから親子の年齢は同じなのです。 何人の子どもが生まれても、その子の親になるのですから、やはり同年齢となるのです。 同じように弟が生まれて兄・姉になり、妹が生まれて姉・兄になるので、兄・弟・姉・妹も同年齢です。 さらにお孫さんが生まれると同時にお祖父ちゃん・お祖母ちゃんの誕生です。ですから祖父母とお孫さんも同年齢です。 このような考え方は、お釈迦さまが悟られた『縁起』の思想です。「彼あるが故(ゆえ)に、これあり」「彼、生ずるが故(ゆえ)に、これ生(しょう)ず」とお示しいただいたように、私たちはお互いに持ちつ持たれつの存在なのです。 自分一人で存在するのではなく多くの「因(いん)」と「縁(えん)」に支えられた私の「いのち」なのですね。

私によく、PTAまとめている若い親から、相談をうけます。
また、親子間の生活の中で、聞こえてきます。

私が言いたい事は、
自分に初めて子どもが誕生した時、あなたは何を感じたでしょうか。
父親と母親では感じることは違うでしょうし、子どもが欲しくて努力をして、ようやく授かって喜びはひとしおということもあるでしょう。
そうかと思えば、それまでの自分の人生や境遇によっては、子どもが生まれたことを、素直に喜べないということもあるかもしれません。
  生まれた時に色んな気持ちがあったとしても、一旦この子を育てようと決意してからは、やはり将来幸せになって欲しいと思って、一生懸命子育てをしていると思います。しかし、子育ての只中にあって、時に「何やってんの」と怒鳴ってしまうことがあります。そうやって怒鳴るのは、この子の将来の為を思ってのことだと、自分に言い聞かせたりもしますが、本当のところは、自分のイライラをぶつけていることがほとんどではないでしょうか。
時にはそれがエスカレートし、あげくの果てには「こんな子は、いなかったらよかったのに」と爆発することがあるかもしれません。

親が学ぶべきは、子なんです。

餅の実体 


良い法話を聞かせていただきました。

徳山禅師の「三世心不可得」です。
徳山は四川省から旅立って途中、ある餅屋に立ち寄ります。そこでの老婆との問答です。徳山は実に優秀な金剛経の大家でしたがその時はまだ開眼してはいませんでした。徳山はその老婆の餅屋で点心(おやつ)にしようとしたのです。
老婆「そのかついできたものは何ですか」
徳山「金剛経の注釈書です」
老婆「わしに質問がある。もし貴僧が答えることができれば、ただで餅を差し上げましょう。もし、答えられなければ、よそへ行きなされ」
徳山「どうぞ質問してください」
老婆「金剛経に『過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得』とあるが、あなたは一体どの心で餅を食べるのか」
徳山(無言)

 徳山は餅を売る老婆にぐうの音も出なかったというエピソードで、徳山は「心」という文字に「心」を奪われてしまったのです。心で餅を食べるとでも思ったのでしょうか。餅は口で食べるに決まっています。彼には心が何か分かっていなかったのです。心の「実体」が分かっていれば、彼は黙って餅をつまんで食べ、ただ「ああ旨い」と言ったでしょう。「心の実体」が分かれば「餅の実体」が分かります。同時にそれらは別々の「もの」ではなく、元来一つの「もの」だったことが分かるのです。「三界唯一心」という言葉があります。

真実は極めて単純明解ですね。

「因縁」煩悩を捨て去ったとき

人は其々何らかの苦労や問題があるものです。
人によっては、家族皆が其々病難や苦難を背負っている場合もあります。
それは、因縁 なんです。それこそが、仏教の基本なんです。

「因縁」つまり、何事も
「原因があって結果がある」
「原因と結果の間をとりもつのが縁です。

しかし、この理論だけなら誰でもわかります。
どんな種でも水や太陽や肥やしが無くては花が咲き実が生りません。その結実までに必要な条件を「縁」といいます。いたって単純明快な理論です。
しかしこの一見単純明快な理論が実はなかなか難しいのです。たしかに「原因があり縁をとおして結果がある」という理屈はだれにでも容易に理解できます。しかし、お釈迦さまは「因縁」をほんとうに理解するには、すべての煩悩を捨て去ったときに現れる悟りの智慧が必要であるというのです。自分だけが、辛いとは思わず、今を逃げずに業として修行を全うしましょう。

たらちね(垂乳根)

私は福祉ボランティアをしています。
新たな年を迎えて、悩みを話して下さいました。

昨夜、ある若いお母さんから母親への憎しみがあり未だに実家には戻っていない。電話でも喧嘩してしまうと。

確かに、母親を親とも思わない悪言苦言を言う娘さんでした。
今、娘さんは母親になりました。
しかし親への憎しみは変わらず、感謝もありません。
それでは、優しい子供に育てる事が少し心配でした。
私は聞きました。
貴女は、母乳で育ったのですかと。

子を思うならば、ご自分の幼い時のご両親を思うと良いです。
「たらちね」(垂乳根)という言葉がありますよね。
母や親にかかる枕言葉です。垂れる乳の根っこなんです。
母は自分の血液を乳に変え、大切に抱きかかえ、赤子に分け与えます。赤子は栄養と共に母のぬくもりや優しさを感じ、それが私たちの根っこになっているのです。
 生まれてすぐ私たちは親から立派な名前をいただきました。
名前には両親の願いが込められています。
この名前に泥を塗らないように生活することが私たちの務めではないでしょうか。 
名づけるとは、
もし、良雄と、名付けられたとしますと、毎日、良い人になる様に親の願いが一生、教えてくれている事になります。
年末ではありますが、両親の願いを考えてみてはいかがでしょうか。
 すると、我が子に見えてくるものもあり、親としても、気づきがあるかもしれませんね。
お身体、無理しないでください。
とそう伝えました。
実は、私自身に言っているなと、逆に学ばせていただきました。

仏さまのお仏飯は毎日教えていただいています。

毎朝、お仏壇に供えるご飯にも教えていただいてます。
お仏飯、おぶっぱん と呼びます。
仏様は、私らの命がどうできとるか教えていただいています。
ご飯は当たり前にあるのではなく、料理する人。食べ物買う人。それを売る人。買うお金をかせぐ人。食べ物を作る人。食べ物そのもののいのち。それを私らは食べています。それだけ多くの命が私らの命を支えてくれています。何も知らずに寝てる間も多くのいのちがずっと途切れず手間をかけ支度をしてくれています。
そうやって出来ているのが私の命なんですね。つながっているんですよね。
だから、自分が勝手していい命なんてはないんですよね。
支えられて心配されて育てられてる命しかないんですよね。仏さまのお仏飯は、毎日教えていただいています。(hands put together)(kind smile)

仏教にもクリスマスがあります

クリスマス

仏教にもクリスマスあります。
12月25日といえば、キリスト教のイエスキリストの誕生をお祝いするクリスマスがあり、日本でも大いに盛り上がる1日になっています。では、4月8日はというと、仏教の開祖であるお釈迦様のお誕生日なんです(浄土真宗では花まつりと言われることが多いです)。
私たちにも、それぞれに誕生日がもちろんありますが、お釈迦様のご誕生のエピソードが凄いんです。まずは母親の左脇から誕生。生まれてすぐに7歩を歩き、天と地を指差し、「天上天下唯我独尊」と発声。そして、天からは甘露の雨が降ってきたというエピソードが残っています。もちろん、左脇から生まれることも、すぐに歩き、発声したこともあり得ないことではあります。ですが、こうしたエピソードが残っているのも、それだけお釈迦様の誕生が尊いことであったということを表しています。
私は幼稚園も仏教でした。花まつり、甘茶かけ、やってました。

灌仏会で使用されている甘茶は、実はお茶ではありません。 ヤマアジサイの変種「小甘茶(こあまちゃ)」から作られています。 小甘茶の葉は苦いのですが、発酵させると砂糖の100〜1,000倍の甘さになると言われています。 砂糖がない時代には甘味料として非常に重宝され、漢方薬などにも使用されていました。

私は自分に問いました‥

私は仏様、如来、菩薩、天部、阿羅漢を工芸、美術品として感じていました。
しかし、鈍感な私は、意味の深さが、まだ一つだけしか、気づきが、学びがありませんでした。
同郷の水上先生に学ばさせていただきました。

天邪鬼は、仏教では人間の煩悩を表ます。邪鬼であり、四天王、十二神将に踏みつけられています。
毘沙門天の足元を見つめ、動きを封じ込められた生き物に興味を惹かれました。

天邪鬼は、足で踏みつけられていても、天をにらみ、歯を食いしばっています。一生をそうして踏みつけられて生きる立場は哀れです。天邪鬼の目は、おのれの精いっぱいの力を振り絞った心意気のようなものやその目に宿る楽しみの境涯までも捉え、このように生まれたことをそんなに悲しんでいないのだ、と思います。
私は、自分に問いました。障がいある人に対して、不幸な役回りの多くを障害を背負ったものに感じていたことはなかっただろうか。
村にある寺の本堂には青銅の雨受け鉢があり、それを捧げ持っていたのは3人の童子でした。天邪鬼と同様に同情を禁じ得ない存在である童子たち。驚いたのは、彼らが重たい水鉢を支えながらにっこりとほほ笑んでいたことだった。この水鉢をつくった人は、どうしてこんな人間たちをここに彫ったのか不思議でした。
寺で見た天邪鬼や村の本堂で見た童子たち。
その記憶を甦らせたのは、足に障がいのある子供達でした。その見せる笑顔は、かつて、水鉢を捧げ持つ童子の笑顔に重なりあっていきました。一生歩行障害の苦労を背負う身でありながら、このような不幸を抱えて、どうしてこの子は微笑するのだろうか。

そんな教えを学び、自分の愚かさにガッカリします。
こんなに意味深いのだと教えられました。

昨日、瀬戸内寂聴さんが亡くなりました

昨日、瀬戸内寂聴さんが亡くなりましたが、地元の県にある大学の名誉学長をされました。同県の永平寺、その頃は、宮崎貫主101歳と寂聴さんの談話がありました。
寂聴さんの話で覚えている言葉は、「学問は知識、仏教は、智慧」と言われたのが、おもいだされました。

ついでに、
現代でも、よく使う言葉で刹那があります。
「刀を振り下ろした、その刹那に」
こんなふうに使ってます。
では、刹那の意味ですが、

前後をわきまえず、その時々の感情だけで生きていこうとする考えを「刹那主義」とありますが、
これは、仏教語なんですね。
極めて短い時間、瞬間のことを言います。
昔読んだ経本に、念頃と言う言葉があります。時間を刻んだ事からきています。
振り子の一振りを七十五に分割するその一瞬が刹那です。その刹那は、サンスクリット語で念頃と言うそうです。
信念がはじまるまでの時間の長さです。
人はそうして時を決めてきたのですね。(kind smile)